シアターブルック@12/27 LIQUIDROOM EBISU


シアターを見にリキッドルームに行ってきました。
そういえばちょうど1年ぶりでしたが。
久々(1ヶ月ぶり?)のライブだったこともあって、
やっぱりライブが好き!なんだなーとしみじみ。
ましてやシアターだからなおさらなわけで。
それにしても、凄かったなあ…。
タイジは「いつもどおり」って言ってたけど。
そうは見えない気合いを感じましたね。
…って、どっちかっていうと観客のほうにだな。
目に耳に心に焼き付けておこう、って感じで。
だから、暴れてる人よりも、聞き入ってる人が多かった気がする。
15分の休憩を挟んで、3時間半のライブでしたが、
本当にあっと言う間で、すっげー楽しかった。
「太陽の落とし子」「生理的最高」「ありったけの愛」がたまらなかった。
特に「生理的最高」の時は、ぶっ壊れてましたね、しかもかなり。汗


以下、ライブの感想とは異なります。
いつもの通り120%個人的な考えですのであしからず。





このライブをもって2009年までシアターブルックとしては活動停止なわけです。
最近の状況をみたら、別に「活動停止」という選択をしなくても、
特になにも変わらないんじゃない?って気もなきにしもあらずだけど、
タイジ曰く「俺としてはありえないこと」という「活動停止」ということを
あえて選択をしたその決断に、まず敬意を表したい。
さすがタイジ。カッコイイよ。


で、だ。
個人的に1ヶ所聞き捨てならない(爆)MCがあったわけですが。苦笑
あ、最初に言っときますが、
挙げられた人がその人だから、こんなふうに言ってるわけじゃないのですよ。
ただね。
その人たちはその人達なりの意思をもってやっているわけで、
言いたいことを言っていようがいまいがそれはその人の選択の結果なのだから、
自分の意思と違うからって、論うのはどうか、と。
確かにタイジが言っていることは私が見ても正論だと思う。
客観的に見て正論って意味でね。
個人的には、それはどうかな?って思う部分も無きにしもあらずですが。
そして、その「正論」は、
それ以外のものが善悪に振り分けられるものではないし、
その「正論」に相反するものが「間違い」に位置づけられるものでもない。
個人の価値観や思想や信条といったものの反映なのだから、
「正しい」どうこう言っても意味ないじゃん!と思うのですよ。
それはもう既にその人の生き方なんだから。
たとえそれがその人の本意によろうがよるまいが、ね。
他人の生き方の否定してもしょうがないじゃん。
逆に、本当に正論だからこそ、わざわざ比較して貶めて、
自分の正当性を述べなくてもいいと思うんだよね。
確実に「正論」なんだからそんなことする必要ないと思う次第。


でもって、色んな場所でタイジの思いを耳にしてきたけど、
私はそれは「大きな正論」なんだと思う。
個人や集団ではなく、社会とか国とか地球とかの大きな枠組みに対するもの。
ただ…どれだけそのことが正しくても、
いや、言っていることが真っ当であれば真っ当であるほど、
社会の一部の人にしか向けられないものであったり、
社会の枠組みの外側で吠えてるだけでは、
単なる理想論を言ってるにすぎず、社会を変える力にはなりえない気がする。
この社会では、真っ当な正論は純粋だからこそ「理想論」や「綺麗事」と紙一重で。
下手したら、単なる大口叩いてるだけと受け取られかねない。
厚生大臣は、任命直後は至極ごもっともな正論を吐いてたけど、
いざ就任してみたら、なんのことはない過去の大臣と同じだった。
それじゃあ何の意味もない。
「大きな正論」を述べるのなら、
社会の仕組みのど真ん中で、
声高に叫び実行することを伴うことに意義があると思うのです。
特にこの日本という国では。
そして、この社会を変えようとするなら、
真ん中で大きな声で叫び、強い力でもって他を引っ張っていく、
強い強い意志と行動力が必要なんじゃないだろうか?
タイジは「変わらなきゃ」って言ってた。
ソロとなって身軽になって、
より多くの人に伝え、より真ん中に出て行くということなのだろうか?
…タイジならそれがきっとできる気がする。
だからめちゃくちゃ期待してるし応援してます。
私はどちらかというと自分の身の回りのこと、
小さな些細なことが気にかかる。
それはある意味「小さな正論」なんだと思う。
「大きな正論」も「小さな正論」もルートの違いこそあれ、最終的な到達点はさほど変わらないはず。
私は私なりにやるべきことをやる。


2年後のライブがすっげー楽しみだな。



…って、言い過ぎですかね?言い過ぎですよね。汗
いや、タイジの「変革」ににめっちゃ期待&応援してるんですよ、マジで。