「ユルシテホシイ」(一部追記)


先日発売になった「SWITCH」。
表紙のシカオちゃん、反則だよ。カッコよすぎ!
前回の表紙(ヴィヴィアンを着た時ね)もカッコイイけど。
またSWITCHに載るのを待ってたので嬉しい限り♪

・・・と言いつつも、実はまだ買ってないのです。
店頭で手にとった瞬間、ページを開いてはいけないような気がして。
何でそう思ったんだろ?分かんないけど。
何となく、時間を割いてちゃんと読まなきゃ、という気になった。
今回は、急いで中途半端に読みたくない。
しばらく時間も取れそうにないし。
だから買うのも、立ち読みもしばらくガマン(一人焦らしプレイだ…爆)
完売はまだしない・・・よね(焦)
うー、沖縄で読もっかな。



このところたくさんの雑誌にシカオちゃんの記事がありますが、
その中でも、とりわけ気になったのはちょっと前に発売になったコチラ↓。

野性時代 vol.35 (2006 10) (35)

野性時代 vol.35 (2006 10) (35)


リリー・フランキーさんとの対談が収録されています。
その中に、
「俺、最近、気付いたんですけど、許されたいんですよ、すごく。」
というくだりがあって、
私の中でこの記事の中で一番興味深いところでした。
そして、思い出したのが、
去年のJ-WAVE LIVEの時のMC。
「こうやって歌い続けることで、ぼくはぼくに許されると思うのです」
(OAではカットになりましたが・・・当然か。
っつーか、ライブのMCで話すような内容じゃない気がする。汗)
時間がたった今だから、口に出せますが、
去年のこのライブで凹んだのは、
セットリスト予想が大外れしたからでもなく、
シカオちゃんファミシュガから熱を感じなかったからでもなく、
このMCを耳にしたことが一番の理由でした。
(生々し過ぎてあの時は書けませんでした)
何かをあがなうようにシカオちゃんは歌い続けてるのか、
ということにすごく驚いた。
そして、もう充分だから歌わなくてもいい、と思ってしまった。
シカオちゃんが音楽から離れられるはずがない、と思うのに。
以前「情熱大陸」に出演した時、
「音楽は、趣味で仕事で全てだから」と言っていました。
シカオちゃんにとって音楽は、
自分自身であり生活であり自己表現であり存在価値であって、
全てなわけです。
そんなシカオちゃんが音楽から離れられるはずがない。
ただ、うたうことが好きだからとか仕事だから、とか以外の理由、
音楽そのものに向かいあう為の理由以外のところで、
何かをあがなう為、という理由でうたうのなら、
それはとても辛いことのような気がする。
そこに介在してるのは自分のみだし、許すも許さないも自分次第。
こういう思いが自分の内にあることを意識している限り、
自分を許すことなんてできやしないのでは?という気がする。
抱えてるもののその重さに、こちらまでとても辛くて苦しくなった。


その一方で、今回の「ユルシテホシイ」対象は、
自分以外の他者であり、許されるか否かが委ねられている。
しかも、「許してほしい」という言葉どおりの意味合いというよりも、
受け入れて欲しい・認めて欲しい・愛して欲しい
といった自己の存在確認の意味合いが強い気がします。
もちろん自分自身に許されたい気持ちもあるんだろうけど。
抱えてるものが大きくなっちゃったかな。
揺るぎないものに「ユルサレル」と、確実に安心できるよね。
束の間の休息かもしれないけど。
それでも「ユルサレタ」その事実が自分のチカラになるはず。


私はどうだろう?何から誰から許されたい?
・・・やはり、「自分」に許されたい、と思う。
過去の、現在の、未来の、全ての自分に許されたい。
ぶっちゃけ、他者からなんてどうでもいいとさえ思う。
(と、書くととても傲慢な人みたいですが。…みたい、じゃないか。汗)
失ってしまったもの・手に入れようとして入らなかったもの、
それに対する後悔や苛立ちとか・・・そういったことに思い巡らせると、
それらがもたらす欠落というか喪失感の深さに自分でも驚いてしまうけど。
そう思うと、自分が自分を許す日なんて来ない気がする。
その欠落を抱えたまま、これからも進むんだろうなあ。
それでも、その欠落を埋めるべく何かを得ようとしている自分を、
ポジティブだな〜!と笑っちゃう反面、
諦めずもがき続けること、そして、
いつか…なんていうありえない願いを少し抱いてる自分が、
あさましいとさえ思う時がある。
投げ出してしまえば少しは楽になれるのかな?
・・・いや、投げ出すことなんてきっと出来やしない。
っていうか、投げ出したら、そんな自分のことをもっと許せなくなるんだろうな。
だとしたら、進むしかないか。
どうせなら誰もが驚くほどとびっきり軽やかなステップを踏みながら。