「BABEL」をみてきました


菊池凛子さんのアカデミー助演女優賞ノミネートで話題のBABELを、
先日、見に行ってきました。
上映時間が早かったせいか、意外とすいててラッキー♪


・・・えーと、感想ですが。
お気軽な気持ちで見に行くとかなりビックリすると思います。
私は今回全然内容について予備知識のないまま見ました。
(ブラピと菊池凛子さんが出てる話題の映画、程度)
すっげー重い映画でした。
今にして思えば、
「BABEL」というタイトルから示唆されることに気が付くべきでしたね〜。

(あらすじ)
壊れかけた夫婦の絆を取り戻すために旅をしているアメリカ人夫婦のリチャードとスーザン。バスで山道を走行中、どこからか放たれた銃弾が、スーザンの肩を撃ち抜く。なんとか医者のいる村までたどり着くが、応急処置がやっと。彼は英語がなかなか通じない村の住人たち、対応が遅いアメリカ政府に苛立ちを露わにするが…。同じころ、東京に住む聴覚に障害を持った女子高生のチエコは、満たされない日々にいら立ちを感じていた…。
goo映画より抜粋。
詳しくはコチラ→goo映画: Movie × Travel — 旅のような映画 映画のような旅


BABEL公式サイトはコチラ→http://babel.gyao.jp/

以下ネタばれがありますのでご注意下さい。


(追記)
本当はもっと色々と思ったこと・感じたことはあるんだけど、
どうも書けない。
筆が進まないっつーか。
(↑この場合は、タイピングが進まない、なのかな?)


ところで。
さっきシカオちゃんのブログを読んだら、
シカオちゃんも見に行ってきたようで。
…私の方が先に行ったも〜ん。






「バベル」という言葉から、私は、
旧約聖書に出てくる「バベルの塔」を思い浮かびました。
キリスト教系の学校出身の方なら、一度は耳にしたことがあるはず。
そうじゃない人だったら…バビル2世とか?←古っ。汗
「バベル」の話は、旧約聖書の創世記に出てきます。

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 言われた。 「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。


旧約聖書創世記第11章より抜粋


そもそも同じ言葉を話していた人たちが、
天に届くほどの高い塔を建て有名になろうとしたのは、
「傲慢さ」からだったのではないだろうか?
そして、言葉も住む場所も分かたれてしまった為に、
お互いの言葉や心までも通じ合いにくくなってしまった。
そして、今に至る。
でも、変わらず、人は傲慢なままではないだろか?と思った。


この映画を見ていて、
登場人物の中にある
通じない言葉・伝わらない思いに対する苛立ちや、
自分を受け入れ愛されない哀しみ、
そして、意図的ではない悪意(←時に、あからさまな悪意だったり)が、
本当に見ていて辛くて居たたまれなくてやるせなかった。
ぶっちゃけ、早く終わってくれないかな、と思った。
ここまで息が詰まる思いがしたのは久しぶりでした。
(↑つまらなかったからではないです)


ラストに、
チエコと父親がベランダで手を繋ぐ。
スーザンとリチャードは、死を意識したことで互いを赦し、
スーザンも一命をとりとめる。
ラストで救いがあったことで少しは安心しました。
・・・でも。
ロッコで、発砲した兄弟のうち、兄は警察に撃たれる。
メキシコで、国境で逃走したサンチャゴのその後は明らかではないし、
アメリアも不法滞在が発覚し、強制送還される。
ここに救いはない。
強者はその強さを発揮し、
弱者はさらに虐げられる、ということなのだろうか?


・・・やっぱり、重い。