「アストライド/LIFE」vol.2


なんで、初聴きを雑踏の中で聴きたくなったのか。
自分の中で、これがずっと気になってた。
事前に歌詞を見ていたならまだしも、
全く見てなかったのに。


歌詞だけを先に見てしまうと、
どうしてもイメージとか思い込みとかが先行してしまうので、
音と歌詞と声が合わさったものをまず聴きたい。
だから、事前に公開されていた歌詞も見ないようにしていた。
よって、ソニー損保のCMも見なかったし。
宇宙初OA(←懐かしいw)や、ライブでいきなり披露とかを除いて、
実際、新曲の時にはたいていそうやって聴いてきた。


…なのに、何故?
移動中、ヒマなのでちょっと考えてみた。


一因として、まず考えられるのは「LIFE」の世界観の影響。

できれば、アコギのみか+弦カルで聴きたいな。
個人的にはCDよりもシンプルなほうがより響いた。
それにしても、PANでのイントロの時の照明が美しかったこと。
織りなすように囲むように重なってゆく光は、
想い、思い、願い、希望、夢、時間…それはつまり、人そのもの。
そういったものに、
絡みつかれているようにも見えるし、
逆に、守られているようにも見えた。
きっと両方なんだろう。
たくさんの人や思いと、時に交錯し解け合ってゆく。
生きていくということはそーゆーことなんだ。
私にとって「LIFE」はそういう曲。


そして、一番大きいのは、無意識のうちに、
「アストライド」に、スガシカオに、
問う気持ちがあったのではないかと。
今にしてそう思う。
あの時は思いもしなかったんだけど。


個人的にシカオちゃんの曲は、密室度が強いと感じている。
部屋とか車とかそのあたりの空気感。
誰かと一緒に聴くっていうより、一人で聴きたい。
(気まずくなる曲もあるしw)
ま、ここ数年はそういう空気感は少し薄れてるけど。
耳にした時すぐに、
横一列的に、あー分かる分かる!みたいな、
分かりやすい共感ではなく、
すっと静かに言葉が沈み込んでいって、
或るポイントでいきなり言葉が暴れだして、気持ちが揺さぶられる。
個人的には、分かりやすさと共感は必ずしも一致しない。
むしろ、反比例かもしれないとさえ思うこともある。
誰にでも分かる表現って、
想像しなくていいからそこでつい止まってしまって、
自分の気持ちがなかなか添ってゆかない。
よって、私には、浅い共感で終わってしまう傾向が。
シンプルな思いや言葉ゆえに、
深く突き刺さることもあるんだけど。
もちろん、難解なのがいいわけではない。
曖昧な表現は、焦点がぼやけてしまうし、
回りくどい言い回しは、言葉の羅列にしか見えなくて、
センスないなーと思う。
(このログがまさにそれな件wセンスなくてサーセンwww)


…なにが言いたいのかっていうと、
横一列的な共感で、
こーゆー曲だよね、っていう共通認識が持たれにくいってこと。
時間的空間的には限定的な瞬間を切り取った中で、
対極にあるようなもの、
例えば、理性と狂気、理想と現実、希望と諦め、
愛と憎しみ、自由と束縛、キレイなものと歪んだもの、
そういった相対的なものが、
同じひとつの場所に確実に存在してひっそりと息づいてて、
全てが内包されてる、と感じさせる。
だから、固定的な言葉やイメージでくくりにくい。
むしろ、そうしてしまうと
曲を損ねてしまいかねない。
(例えば、「あまい果実」をストーカーチックな曲とかね。
ま、確かに描写されてることはストーカーみたいなんだけどさー、
でもそーじゃねーだろっつーの…長くなるので以下略w)


シカオちゃんのここ数年の傾向として、
分かりやすい一定のイメージを前面に押し出した上で、
どこまで伝えられるかということを念頭にチャレンジしてる気がしてる。
詞が浅くなったっていう声もよく耳にする。
でも、だ。
第一印象的なイメージの裏側に、
たくさんの言葉にならない思いがある気がしてならない。
個人的には、以前の表現方法のほうが好みだけど、
果たしてスガシカオの曲は本当にそれなのか?
そうじゃないと思う。
いや、正しくは、それだけじゃないと言うべきか。
私が聴きたいのは、
どんなカタチであれ、
スガシカオにしかできない曲なんだよね。
「アストライド」という曲は、
私が切り抜いて手帳に挟んで持ち歩いていた記事、
(今はボロボロになったので家に置いてるけど)
ずっと前の「激刊!山崎」で描かれていたところの、
「自分を受け入れた」曲なんだと思う。
このひとは、こんな詞を書けるようになったんだと。
新しいステージへ、世界へと、足を踏み出したんだなと。
「宇宙」を初めて聴いた時、
とうとうこんなラブソングが書けるようになったんだなと驚いたけど、
その時をゆうに超える衝撃だった…。


2度めのメジャーデビューにあたって、
メジャーシーンの中で、大衆音楽として、
街の中で、人々の間で、
様々な音が行き交う中で、
スガシカオの音楽は、
あらゆる雑音にかき消されることなく、
私に、そして、世間に届くのか?ということ、
2年間のインディーズの意味、
今後の覚悟を問いかけたかったんだと。


セールス的なことではなく、
この地の大衆音楽として、
多くの人の曲になればいいと思う。